知らないと損をする筆跡鑑定の話 第34話





【筆跡鑑定における経験則とS/N比】




  ■筆跡鑑定におけるデータの限界

  ある元科捜研の鑑定人がいます。その方の筆跡鑑定は誤りが多く、弁護士さんから再
 鑑定や反論書の作成を依頼されることが多いのです。以前、「季節外れのカニ鑑定」の
 中で取り上げた一人です。

  鑑定人の誤りを許せないというわけではありませんが、その方は、何かにつけて、警
 察系鑑定の正当性を主張され、われわれ民間の鑑定人はあてにならない等と、うるさく
 主張されるので辟易させられます。

  今回は、「警察系鑑定には『稀少筆跡個性』のリストがあり、それを基準に鑑定をし
 ているが、あなたにはそのようなものは無いだろう」というような主張を裁判所に提出
 しているのです。

  取りあえず「自分の鑑定の中でも取り上げていないし、私の鑑定書でもなかったもの
 を唐突に取り上げて裁判所に主張してもナンセンスだ」と切り捨てておいたのですが、
 これは、大切な問題を内包しているのでこの機会に少し説明しておこうと思います。

  「稀少筆跡個性」とは、科学警察研究所の論文によれば、発生率が3〜5%の珍しい
 筆跡個性(筆癖)を言います。つまり、100人が書いて3〜5人が該当するような珍
 しい筆跡の事です。

  なぜ、元警察官の鑑定書にも私の鑑定書にも存在しなかったのかと言えば、一つには、
 鑑定する文字中に該当する文字がなかったからです。もう一つの理由は、これは私の推
 測ですが、仮に稀少筆跡個性があったとしても、そのリストには、その文字が無いから
 でしょう。

  なぜそのように言えるのかといいますと、一つは、6〜7回見ている彼の鑑定書で、
 筆跡個性を取り上げられた事例はないからです。もう一つの理由は、私も、アンケート
 方式で「稀少筆跡個性」を収集しようと考えたことがありますが、これは、仮に数万人
 程度の人を相手にしても、とても網羅できるようなものではないと、諦めた経験がある
 からです。


 ■実際に活用できる稀少筆跡個性のデータはない

  これは、考えてみればわかります。一つは漢字の多さです。例えば「広辞苑」に収録
 されている漢字は24万語です。常用漢字だけでも2000以上あります。これらの漢
 字のなかで、3〜5%の確率で発生する珍しい漢字をどのようにして集めれば良いので
 しょうか。

  仮に「自分の筆跡で珍しい筆跡と思うもの提出して下さい」というアンケート方式で
 お願いし、一万人から回答を得たとしても、300〜500しか集まりません。しかも、
 それを、今度は、一つの筆跡を数百人程度に書かせて、本当に稀少筆跡個性なのかどう
 かを確かめるという作業があります。

  仮にそうして300〜500の漢字を集めたとしても、現実に通用している漢字の一
 割にもなりません。これでは、鑑定において実際に使える機会は、めったに無いことに
 なってしまいます。私が「警察のリストに該当する漢字が無いから使えないのだろう」
 というのは、このような理由からです。

  どうしても、この問題を解決したければ、それは、事件ごとに生じた「稀少筆跡個 
 性」について、その文字についてのデータを収集するしかないのです。そういうときに
 こそ、公金で賄われている警察が動けば良いでしょう。個人の費用で賄われている民事
 事件では困難です。

  警察は国民の税金で賄われています。その金で収録した「稀少筆跡個性」のリストで
 す。本来なら、公開して「必要な人は広く使ってください」というべきでしょう。それ
 を、「君たちは無いだろう」と、優位性を見せびらかすような醜さを自覚して頂きたい
 ものだと思います。

  ところで、私はその稀少筆跡個性をどのように扱っているのかと言えば、3〜5%と
 いう比率を参考に、経験則によって扱っています。このように言うと、今度は、「経験
 則というような非公式のものは信用するわけにはいかない」という声が聞こえそうです。

  そこで、ここからが本題ですが、今回は「経験則」というものの意義について少し掘
 り下げて考えてみたいと思います。

  最高裁では、かって「経験則」について「筆跡鑑定は勘や経験に頼らざるを得ない面
 があり、その証明力には限界があるにしても…」と、半分は認め、半分は批判的な言い
 方をしていますが、これは正しいのでしょうか。

  私は、筆跡鑑定という、データの限界がある分野では、「勘と経験」は、極めて強力
 な武器であり、これをないがしろにしては、高い水準の筆跡鑑定は成り立たないと考え
 ています。

  筆跡鑑定とは、普通の人が書いた様々な文字の中から、「書き手に固有の特徴…筆跡
 個性」を取り出す作業です。それは、雑音の中から人の言葉を聞き取るような作業に似
 ています。


 ■S/N比をカバーする経験則

  情報工学に「S/N比」という用語があります。サインとノイズの比率という意味で、
 「信号雑音比」と訳されます。私は、つねづね、筆跡鑑定とは、読み手が理解しやすい
 ように、「S/N比」を高めることだなと考えることがあります。

  つまり、文字に付帯する様々な雑音(単なる乱れや個人内変動)の中から、有意義な
 筆跡個性を取り出して示さなければならない、それによって、「読み手のS/N比を高
 めること」、それが私の役割だということです。

  実際の鑑定書を読めば分かりますが、多くの人は、例えば「このサンズイの角度は標
 準よりもフラットだ」という指摘によって、「なるほどそう言われればそうだなあ」と
 気づくものです。読み手のS/N比を高めるこというのはそういう意味です。

  しかし実際は、単なる文字の乱れや個人内変動を筆跡個性と誤って捉えて、異筆だと
 か同筆と言っている鑑定書が少なくありません。これは、ノイズを有意義なサインと間
 違えた鑑定ということで、むしろ理解を妨害するものです。

  S/N比が有効になるには、少なくともSが1以上でなければ取り出せません。科学
 的にはその通りですが、しかし、人間の能力は、欲しいサインが1以下でも取り出せる
 のですね。

  たとえばうるさい地下鉄で会話をしている人がいます。周りの騒音の方がはるかに大
 きくて、本来ならば相手の声は聞き取れない筈です。しかし、現実には会話が成立して
 います。何故、このようなことが可能なのでしょうか。

  本来、拾えない筈のサインをキャッチできるというのは、実は「経験則」があっての
 ことです。会話が成立する理由は、相手の話の脈絡から、「このようなことを言いそう
 だ」と予測しているからです。あるいは、唇の形からも判断しています。


 ■「浜」字にみるS/N比の具体例

  このようなことは、経験がないとできません。つまり、人は、S/N比が1以下でも
 経験によって補うことが出来るという事例です。これは、人間の能力の柔軟性を示して
 います。

  これは、筆跡鑑定でも同じです。筆跡鑑定では、「稀少筆跡個性」のように、必要な
 データが不足していても「経験則」によってそれを補うことができるということになり
 ます。

  「稀少筆跡個性」の場合、全ての文字データが揃うなどとは考えられません。そのと
 き、データがないから何もできないのというのではなく、経験則によって、欠落した穴
 を埋めることができるということです。

  さて、抽象的な話はこの位にして、実際の鑑定を使って「サイン」(鑑定上有効な筆
 跡個性)と、ノイズ(邪魔な個人内変動)の違いを具体的に説明したいと思います。

  この後、図を見てご理解していただきたいのですが、「浜」という文字を取りあげま
 す。この筆跡からは、書き手に固有の筆跡個性として、「a」「b」「c」の3点を取
 り出しました。

  一方、邪魔な雑音(個人内変動)としては、少なくとも、「あ」と「い」の2個所が
 あります。これは、どのようにして、サインとノイズに分けることが出来るのでしょう
 か。

  個人内変動とは、主に、@気分、A体調、B書くときの条件によって変化することで
 す。筆跡個性として有効なサイン…「a」「b」「c」は、この文字ではすべて「角 
 度」ですが、角度は、書くときの状況の影響は受けにくいのです。

  一方、個人内変動の「あ」と「い」は、書くときの条件の影響を受けやすいのです。
 このようなことは、経験則で身に付けた知識です。このあたりの詳細は、前回の「筆跡
 鑑定の誤りはなぜ生まれるのか…その2」に詳しく書いていますので、よろしければ 
 「筆跡鑑定人」中の「メルマガ−33」でご覧ください。

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  それでは「浜」字の鑑定の実際をご覧ください。何といっても、実際の文字でご覧い
 ただくのが分かりやすいと思います。



  今回は、筆跡鑑定を理解する上で、S/N比の概念が役立つこと、そして「経験則」
 というものが、どれだけの価値を持つものかについて検討してみました。ご感想など、
 お聞かせ頂ければ幸いです。



                                  この項終わり




 
一般社団法人・日本筆跡鑑定人協会   株式会社・日本筆跡心理学協会 
代表 筆跡鑑定人  根本 寛(ねもと ひろし)
東京都弁護士協同組合特約店
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